「社長、大変です。銀行が——」
 私は静かに、その富士を見上げた

その電話が入ったのは、月曜の朝だった。

「社長、大変です。銀行が、融資の条件を見直したいと」

受話器の向こうで、経理部長の声が上ずっていた。

うちの会社は運転資金を、半年ごとに銀行から借り換えてつないでいる。主力取引先の発注が半減して、三か月。ついに来たか、と思った。

その夜、私は一人、社長室に残っていた。

机の上には、資金繰り表。頭の中には、社員の顔。四十二人。その後ろにいる家族を数えれば、百人を超える。誰にも相談できない。相談された側が、眠れなくなるだけだからだ。

ふと顔を上げると、壁の富士が目に入った。

先代が——父が掛けていた絵だ。横山大観の『正気放光』。正直、古いと思っていた。社長室に富士なんて、いかにも昭和だと。ただ、外す理由もなくて、そのままにしていた。

立ち上がって、絵の前に立つ。複製画だろうが、近くで見れば、雪の白に確かな筆の跡がある。父はこんな絵を、どこで買ったのだろう。

そのとき、気づいた。

バブルが弾けた年も、リーマンショックの年も、父はこの部屋にいた。この絵の前で、同じような夜を、何度も過ごしたはずだ。それでも会社は、いまここにある。

富士は、動じていなかった。あの頃も、いまも。

翌週、一本の電話がかかってきた。父の代から付き合いのある、古い取引先だった。

「新しいラインを立ち上げることになってね。一度、話を聞かせてもらえないか。先代には、世話になったから」

チャンスは、来た。だが、まだ何も決まっていない。

私は三日で提案書を作り直し、先方に乗り込んだ。品質データも、うちの台所事情も、包み隠さず見せた。その上で、新ラインに合わせた専用の生産体制を、この場で約束した。

一週間後、電話が鳴った。契約が決まった。父と同じ世代の、あの役員は、最後にこう言ってくれた。

「なかなか、いい提案だったよ」

私はその契約書を持って、銀行に向かった。融資はこれまでどおり続くことになり、危機は去った。


その夜、私はまた、富士の前に立った。

扉を開けたのは、父の信用。その先で勝負したのは、私だ。父は目に見えないものを、この会社のあちこちに残していた。それを次につなぐのは、私の仕事だ。

いや——経営に、危機が去る日などないか。

いまも私は、決断の前に、この絵の前に立つ。富士は何も言わない。励ましも、慰めもしない。ただ、雲海の上で、動じずにそこにある。

まだ登るべき頂がある、そう言われている気がする。

ふと、その動じない富士が、父の姿に重なった。

社長室に飾る絵画 横山大観『正気放光』複製画(巧藝画)
『正気放光』 横山大観(額/掛け軸)

この富士は、「気」を描いている

『正気放光(せいきほうこう)』は、昭和十七年、第二十九回院展に出品された作品です。

画題の「正気」は、幕末の水戸学者・藤田東湖の詩「正気の歌」に由来します。その冒頭は、こう歌います。

天地正大の気、粋然として神州に鍾(あつま)る。秀でては富士の嶽となり、巍々として千秋に聳ゆ。

天地に満ちる正しく大きな気が、この国に集まり、地に秀でて富士の峰となった——。つまりこの絵の富士は、風景ではありません。天地の正気が形をとった姿、いわば気概そのものです。冠雪から光が放たれるように描かれた画面は、その題意をまっすぐに表しています。

大観は水戸の生まれ。東湖と同郷であり、この詩の精神を知り尽くした画家が、富士という一つの答えにたどり着いた作品といえます。

大観は、富士に自分を描いた

横山大観は1868年、茨城県生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)の第一期生として学び、近代日本画の礎を築いた巨匠です。生涯に描いた富士は1,500点を超えるともいわれ、「富士の画家」と呼ばれました。富士を描くことは、富士にうつる自分の心を描くことだ——大観はそんな言葉を残しています。

その心は、平坦な道を歩いてきたものではありません。若き日の大観が挑んだ新しい画風は「朦朧体」と嘲られ、絵は売れず、家族を抱えた暮らしは困窮を極めました。それでも描くことをやめず、やがてその絵は海外で高く評価され、大観は仲間とともに日本美術院を再興します。理想を掲げ、世に容れられず、なお貫いた人。横山大観の富士が放つ動じない気韻は、その生涯そのものから来ています。

だからこの富士は、見る者を慰めません。ただ、静かに問いかけてきます。お前は、何を貫くのか、と。

なぜ、社長室に富士なのか

社長室に富士の絵——古くからの定番です。規模の大小を問わず、経営者はどこかで「日本一」を志している。その心が、日本一の山の姿に重なるからでしょう。デスクの背後に山の絵を掛けると「後ろ盾を得る」という言い伝えもあり、富士を選ぶ経営者は、いまも少なくありません。

けれど、社長室の絵画の本当の価値は、来客に見せることではないのかもしれません。最終決断は、いつも一人で下すものです。その部屋で日々向き合う一枚が、揺らがずにそこにあること。『正気放光』は、そのための絵です。

『正気放光』手彩色

大塚巧藝社の巧藝画は職人の手彩色

巧藝画(こうげいが)は、美術印刷の上に、古美術品の修復も手がける一流の絵師が、一枚一枚、原画同様の絵の具を手彩色した複製画です。いわゆる複製画が印刷のみで製造されるのに対し、人の手が加わることで、印刷だけでは出せない絵の具の質感と色の深みが生まれます。

このような方法で作られている複製画は他にありません。巧藝画は、横山大観が提唱し、およそ100年の歴史を持ちます。

大観自身が認めた技法で、大観の富士を掛ける。物語の中の社長が見た「雪の白の、確かな筆の跡」は、この手彩色のことです。

社長就任祝い・事業承継の贈り物にも

『正気放光』は、ご自身の社長室のためだけでなく、贈り物としてもお選びいただけます。社長就任のお祝いに。創業記念に。あるいは、会社を継ぐ人へ。

物語のなかの父がそうであったように、多くを語らずとも、この一枚は想いを伝え続けます。

『正気放光』横山大観

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